私が社会福祉士を目指した経緯を書かせていただきます。
結論:もっと保護者の方に、お子さんの適切な情報を伝えたいと思った
私は、約17年間、福祉業界で働かせていただきました。
初めに通った大学は経営学部で、福祉とは関係がありませんでした。
その後、一念発起して、通信制大学に入学し直し、社会福祉士を取得しました。
今回は、その経緯を書きたいと思います。
福祉との出会い
大学時代の思い出
私は、高校を卒業後、関西のとある4年生大学に進学をしました。
しかしながら、今となっては、両親に大変申し訳なく思うのですが、大学にほとんど通わずに、学外の学生活動に明け暮れていました。
その活動とは、私の様な在日朝鮮人の学生の集まりでした。みんなで、歴史を学んだり、朝鮮語の勉強をしたり、夏休みには合宿の様な旅行のようなイベントがあったり、私の青春時代のハイライトの様な時期でした。
そんな学外活動にいそしむ私は、3年間大学に通い、わずか8単位のみを取得するという記録を持って、大学を中退することになります。
日本各地を旅する
大学を中退した私は、そのまま、そのサークルも辞めてしまいました。
実家に帰ったは良いが、サークルの仲間との縁もほとんどなくなりました。
心にポッカリと穴が空いたような状態で、半年ほど、ほとんど家を出ずに、テレビを見たり、ゲームをしたりと、仕事もせずに、特に目的もなく生活をしていました。
初めてみた、母の涙
そんな惰性な日々を過ごす中で、ある日、母親からこんなことを言われました。
将来の目標もなくブラブラしてるだけで、あんたを見てると歯痒い
後にも先にも、あんな悲しそうな母の顔を見たことはありませんでした。
あの日の、母の感情的なコミュニケーションがなければ、もしかした私は未だに家で引きこもったままだったかもしれません。
余談ですが、福祉施設で相談員をしている時も、多くの引きこもりの方の相談をさせていただきました。その状況に満足している人などいないんではないか、皆どこかでキッカケを探し出口を求めている。人の人生は紙一重。
皆何かキッカケがあれば、きっと抜け出せる。私が対応させていただいた中には、数十年引きこもっておられましたが、勇気を出して相談に来ましたという方も少なくありませんでした。
私はその方の勇気に、心から感動しました。
私にとって暗闇から抜け出すキッカケが、あの日の母の涙でした。
友人への相談
その日から、「これではイカン」と考えた末、学生時代に最も信頼できると思った友人に相談しました。
忘れもしません、友人と会ったのは京都にある某珈琲店でした。
家にいるだけで、やりたいこともないねん。どうすれば良いやろう?
うーん。とりあえず、色々と悩んでるなら、沖縄にでも行ってきたら!!
友人から得た助言は「沖縄に行く!!」というものでした。
そこから、私は人生で初めて一人旅行をし、旅先で出会った方と仲良くなり、数珠繋ぎに、日本各地を旅行するようになりました。
旅先でお金がなくなれば、実家に帰り短期のアルバイトをして、少し貯金が出来たら旅行に行くということをしていました。
今から思えば、旅行が好きなのもあるのですが、それ以上に各地の友人に会いに行くという要素が強かった様に思います。
ちなみに、その助言をくれた友人は今や関西の某国立大学の准教授になっています。今は主にSNSを通して、近況を知るのみですが、ヤスオカ氏、その節はありがとうございました。あなたのアドバイスで、道がひらけました。
話は戻って、そんな各地の友人に会いに行っている時、東北地方で、少し年上の旅人と仲良くなりました。
そして、偶然にもその人が、関西地方のとある障害福祉関係のNPOのスタッフの方で「よかったら、うちで働いてみたらどうや?」と言われ、私は福祉の道に進む様になりました。
施設の道へ
福祉の楽しさに目覚める
働き始めてから知ったのですが、そのNPOは、福祉業界ではとても有名な事業所さんでした。
代表の方は、車椅子で、ヒッチハイクしながらアメリカ大陸を横断するという偉業を成し遂げ、本も何冊も出版さている様な、西日本、いや世界の当事者運動のリーダーの様な方でした。
その事業所さんでは、「ヘルパー」ではなく「アテンダント」と呼び、「介護」ではなく「介助」と表現する、また、比喩的な表現ですが「当事者の手足」となって仕事をするということを教えていただきました。
私は、主に身体の方や、筋ジストロフィーの方のアテンダントとして勤務させていただきました。
もう15年ほど前のことですが、当時から全国でも先進的な事業を展開されていたと思います。
当事者の皆さんが街にでて、アパートを借り、一人暮らしをする。
そして、その介助のため、ほぼ24時間のアテンダントを利用をする。もちろん、夜間も。私も当事者の方の横に布団を引いて、一緒に寝させていただいておりました。
時には、車椅子を押させていただきながら、一緒に新幹線に乗り、東京までクラシックのコンサートを聴きに行く。
今から思えば、従来の「障害者福祉の枠」を超えた、得難い経験をさせていただいたと思います。
隣町の小規模作業所へ移る
そんな、様々な体験をさせていただいている時に、仕事とは別の場所で出会った友人からこんな相談を受けます。
知り合いが、障がい者の人のグループホームを立ち上げるねん。管理人として住み込みで働いてくれる男性スタッフを募集しているけど一緒に住まへん?
いく、いくー!!
そして、私は友人と共に、住み込みで、あるNPO法人が運営するグループホームの管理人をすることになります。
そこは、「尼崎」。今でも私が懐かしく、愛おしく感じる場所です。
そのNPOの話は、いずれ別にまとめたいくらいありとあらゆることがあり、現在の私の基盤と言えます。
社会福祉士を目指して
放デイのスタッフとなる
その後、現在の妻と出会ったり、別の県に引っ越したりする中で、ある時、放課後等デイサービスで管理者兼児童発達支援管理責任者をさせていただくことになりました。
そこで、初めて、一つの施設を運営するという業務をさせていただいたのですが、悪戦苦闘の連続。現在においても、時折、その時のことを思い出したりします。
ただ、苦しかった中でも、現在でもやりとりさせてもらっている保護者の方や、その時、学んだ経験が今に活きていることも沢山あります。
当時の社長にはご迷惑をおかけしたり、ミスをカバーしてもらったりしました。また、私自身も、スタッフがお子さんを怪我させたり、送迎の帰りに停止中の車にぶつけたりということで、保護者の方や、住民の方に謝罪に出向いたこともあります。
日々、全国の放デイや、様々な事業所様で、この様に、管理者やスタッフの方は働かれているのではないかと思います。
色々とネガティブなことも言われる、放デイではありますが、私は福祉で働きながら、真摯に当事者や保護者、関係者に向き合われる皆さんに最大限の敬意を持っております。
社会福祉士を目指して
放デイでの日々で印象深かったのは、当事者の子供たちはもちろんですが、今でも時折思い返すのは保護者の方々とのやりとりです。
明るくこちらが元気をもらえるような方。
将来への不安を涙ながらに語られる方。
様々な、子を想う気持ちに触れながら、日々、こちらも責任を感じておりました。
そんな時、普段明るく、チャキチャキっとした、お母さんから連絡がありました。お子さんが発達障がいでした。
子供が学校で友達とトラブルになった。学童も遠回しに利用して欲しくないと言われた。本当にどうしたら良いか分からない。
普段、明るいお母さんから、聞いたこともないような、深く、寂しげな声が聞こえて来ました。
正直にいうと、私は全くうまく返答できませんでした。
ありきたりなことしか言えない自分に非常に苛立ちを感じました。自分が歯痒く感じました。
その時、決意しました。
もっと福祉の知識をつけるために、社会福祉士になろう
その後、大学を8単位で中退した私は、編入もできずに、改めて30代から1年生として、通信制の福祉大学に入学しました。
そこを、5年間(仕事が忙しい時期に1年間休学をしました)で卒業し、運よく社会福祉士試験に合格し、晴れて30代半ばにして、社会福祉士となりました。
社会福祉士になった自分が、上手く当事者の方に支援できているのかは、分かりません。
また、私は、そこに行政書士の資格を加え、自分なりに福祉と向き合いたいと思っています。
「誰かの役に立ちたい」という果てしない目標のため、今後も、様々な課題と向き合っていきたいです。
お読みいただきありがとうございました。
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